昭和49年7月17日 朝の御理解
御理解第75節 「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ」
皆さんが合楽、合楽というて、朝もなければ昼もないようにしてお参りになる。それは、助からなければならない。やっぱ助かりたいと思うから。
合楽にお参りをさせてもらって、目の当たりに、これが極楽の世界であろうか、合楽の世界とは、こういう世界をいうのであろうかというものを見せてもらう。そして、有り難いみ教えを頂いて、心から有り難い(ならせて?)頂く、いわば助かる手立てというものが段々できて来る。
その極楽( ? )極楽を感じさせて頂けれる事が楽しみで合楽に、通ってくる。私は、皆さん大体そうだと思うんですが、どうでしょうか。ね、そして、その合楽を銘々の家庭の中に現すという事である。
だから、いわばそういうお話ばかりである。極楽が感じられない、いわゆる有り難いというのが感じられないというのは、合楽に例えば、五年も十年も御縁を頂いておるというほどしの人ならばです、ね、一応ほとんどの人が、合楽を自分の心の中に、又は家庭の中に現しておる。いや、頂いておる。頂いておるけれども、それをそれと感じきらないということは、ね、おかげをおかげと感じきらずに、まだおかげが頂き足らんような思い方からだというみ教えが昨日、一昨日の御理解でしたね。
だからそれは、おかげを、いわば殺しておるようなものだから、本当におかげが、おかげとして実のっていかんのだと。あの御理解頂いて、はー、ほんに思うてみりゃ、おかげを頂いておると。善導寺の原さんじゃないけれども。
ね、親子で、夫婦で、それこそ、まぁ、(かっちゃんしっちん?)いうごたる自転車でお参りをさせて頂いておった時代から、単車でお参りをさせてもらうようになり、( ? )でお参りする、の車で参るようになり。新しい、いうなら自家用車で、親子3人毎朝こうやってお参りが出来ておるという事だけでも、大変なおかげを頂いておるという事。
その日暮らしではなるけれども、不安のない、その日暮らしのおかげを頂いておるということ。
店も、あの当時から今から思うと、ね、いうなら、百斤もなくなり店も、いうなら段々きれいになっておるという事。これが合楽を現しよる事だと思い分からせて頂いたら、お礼を言うても、お礼を申し上げても、尽きぬぐらいだという、いうような事を、私は原さんの事ば(誰かに聞いた?)。
ね、そんなら、原さんぐらいなおかげなら私も頂いておるという人が沢山あるだろうと思うんです。合楽には。ね、それは、形の上、例えばなら、久富さん方のように夫婦が、あぁした、あー、病気である。
けれどもです、ね、なるほど合楽の世界と言うところには、貧乏がなくなり、病気がなくなり。争いがなくなるというほどしのおかげと言うものがです、合楽だというのですけれども、今は、その病気をしておってもです、私がなら糖尿病という病気だけれども、神様のね、いうなら糖尿病という名の神様のご都合だ、という頂き方はもう病気じゃないのです。
ね、久富さん達ご夫婦がです、ね、こういう、大変な病気をしておるけれども、これは、神様の神意、神愛の現れです、こそあれ、これは苦悩だ、難儀だというて、不平不足どもいうだんじゃないという心が開けたら、もう病気がないも同じだ。病気はおかげという事になる。
昨日、学院の、んー、(こうしょう?)の、学監ですかね、末永先生?学監をしておられる、永井肝四郎という偉い先生がおられますです。今、( ? )の状態で、半身不随ながらも、御用を頂いておられます。昨日、お礼の手紙が来ております。
あのおかげの泉を読ませて頂いて、本当に力を頂くとかお徳を頂くという、機会というものは、そんなにざらにあるものではない。そういうおげげをです、本当に今こそ、力を頂く時だ。徳を頂く時だという頂き方になるところにです、そのことが有り難いものになってくるんだという事を、おかげの泉の中から分からせて頂いて、本当に力を得ておりますというお礼の手紙が来ておる。
ね、だから、本当の意味においての力を受ける、徳を受けるチャンスを頂いておるのだから、有り難いと分かったら、もうそれは、病気いわば(苦悩?)じゃない。苦しみじゃないのだ。あるものは神愛だけなんだ。
ね、そういう、なら心の状態を開きながらです、ね、いうならば真善美の世界に段々進んでいっておる事実を頂きながらです、まだ頂き足らんという考え方が、おかげを、ね、(はんしはんじょう?)にしたり、おかげを殺しておるから、それがより有り難いことによる、より大きく育たんのだと、というのがおとついの御理解。
ん、昨日の、例えば御理解を申しますと。ね、いよいよです、よりよき世界をつくることの為に、ね、人間の苦悩をとりさえ、ね、除き。歓喜の世界に住まわせてもらう。合楽の世界。極楽の世界を具現する。現していくという事。
ね、その理想実現の為に合楽は誕生した。為に大坪総一郎は生まれた。というような、まぁ大変な、いわば後から気付かせて頂いたんですけれども、ね、事実私の心の中にはです、それがたぎっておるです、確かに。
ですから昨日は、そのね、おかげを皆さんの頂いておるのであるから、又合楽にそれを、見たり聞いたりさせて頂いておるのであるから、それを話していかなければならない。ね。
神様の一握りというたら、これだけだけれども、神様の、あっ、人間の一握りというのはこれ、ね、これだけだけれども、神様の一握りというのはどれだけあるか分からんと、久留米の石橋の先生が仰ったが、その自分の我情我欲というものを握っておるものを、これをはずす、放さなければ、次の限りないおかげにはつながられないのだ、という話をしましたね。
だから、このはなすという事をです、我情我欲を放し。物欲、金銭欲を放すと言うことにも、勿論ですけれども、ね、話していくということに引っ掛けて、私は話し、聞いてもらった。
だから、これを( ? )に宣伝していかなきゃいけない。嘘の事をいうのじゃない。あなた達、事実おかげを頂いておるということをです、ね、沢山の人に伝えていかなければならない。ね、それを話していかなければならない。それが神様へのお礼だというような事を、まぁ私もちょっと力みすぎるようにして、お話をさせて頂いたですね。
さぁ、ところがです、昨日、田主丸の、小野先生がお参りをしていでた。ある難儀な問題を、お取次ぎを願いなさった。それで私がね、今こそね、小野先生。ね、あぁいう立派な大きな病院を、それこをおかげを頂きながらです、そういう難儀があるはず、あってよかろうはずじゃないじゃないかと。
今、合楽で、本気で、合楽の信心を頂いておる人がです、ね、五年十年と信心が続いておる人ならばです、皆合楽の世界に住んでおるばい。極楽の世界に住んでおるよと。貧乏どんする人おらんばい。病気どのする人はおらんよ。その証拠には、合楽のご信者さんの中には、皆もう薬箱というものがなくなった、という人が沢山あるじゃないか。
勿論、争いがないわけではないけれども、親先生がどう良いなさるかという事で、解決していく。いわゆる問題が問題にならないほどしのおかげを皆頂いておるじゃないかと。
あんた達は長年お参りをさせて頂いて、しかも、医者という立場で人を助けねければならない職を頂かせて、天職を頂いておりながらです、そういう難儀な事があってよかろうはずがないじゃないか。
そういう、形で昨日のその、合楽極楽の話しをさせて頂いた、いう事がこういう、先生の話しを聞きよると丸っきりね、誇大妄想狂だとか。気違い病院にでもいれなけんような感じがしますよ、とこういうんですよ。私がそこで聞いてからね、もう本当にそればってん、もう本当にギャフンちいいました(笑い)。
(おおくの?)合楽の人はもう気違い病院に入れにゃならん。そりゃそうでしょうね、やっぱ考えようで、私色々考えたんですけれども、その私がいったところに(引きかえって?)なら簡単に(ひかえると?)こういう事になるんです。
よりよき世界、( ? )人間の( ? )の世界から、苦悩を除き、歓喜の世界を具現するという事にある。この理想を実現する事の為に、合楽教会は生まれた。私は生まれた。といったような事をいうもんですから、もう丸っきり、ほんなこて誇大妄想狂だという、はずだというものをです、段々分からせて頂くようになった。
おそらく、なら昨日は、沢山の人があの御理解を頂いてです、ね、長年の毎朝、毎、朝のご祈念でも頂かれる方ならいいけれども、遠くから参って来た方達が、あの御理解をテープで聞いたら、こりゃちょっと、合楽の先生は、ここおかしかっちゃなかじゃろうかと、ほんに思うた人も、あるかもしれんと私は思いました。
ね、けれどもど、教祖様が仰るように、自分の家の、前の、いわゆる門口をはわくということは、そのまま世界を清めると言うことに繋がらなければならない、とおおせられておるんですから。
私が自分の心の中に、合楽を開く、私が和賀心を心の中に開き、教会に開き、信者の上に開かせて頂きいうるということは、今度は世界に繋がるという意味で、私は話を聞いて頂いたんですけれども、心がたぎっておるもんですから、少し言葉が激しくなって、もう俺より偉いもんなおらん、というような風にも、聞こえたのであろうと私は思うたです。
これはいよいよ、本当に世界にこれを広げなければならんならです、信心のない者にも、薄いものでも、私のいう事を、ありゃ気違いがいよること、といったような事で聞かれたんでは、かえって今日の御理解から言うと、人を殺す結果になるという事を、私は感じるのです。
その証拠にです、私は今朝からこういうお夢を頂いた。●私の父の、弟に、大坪留蔵という人がおりました。もう十年ぐらい前になくなりました。大変お酒の好きな人でした。ここにくるともうお酒が、美味しいお酒がいただけれるのが楽しみできよりました。
その、いわば御霊様がですね、私があの、サントリーのあの、丸いのを、ありゃ何と言うですかね、なんとか、サントリー( ? )とかなんかですか。( ? )とも言うですね。あのビンを、一本こうやって持っておるんです。そして、あの2人でね、もう少しずつもう、大変遠慮気がねのような感じで飲んでおるところを頂いたんです。
私の、例えば大坪一家が助かるという事はです、大坪一家に関わりのあるです、なら私の一家で極楽に行っておるならばです、ね、私の方の家に関わりのある御霊様達が皆そこに、本家、大坪家のとこれ、すがり頼ってくることは勿論です。
そして、なら合楽の味わいを皆が味わっておるのです。酒の好きな人には酒を。甘い物が好きな人には甘い物を与えるだけの力を頂いておるのにも関わらずです、相手をけがねさせておるというところに、私の信心不足を感じました。
せっかくそういう最高の酒を与えながらです、それを、小さいあのふたで、気がね、遠慮しながら頂いておるというお夢を頂いた。はーこれは、例えば、本当に考えなければいけないなぁと。
次にはね、もっとこんなことを頂いた。私は、なんか温泉の、おー、ホテルかなんかに泊まっておって、信者さんもいっぱい来てるんです。金光様のご信者ばっかりといわれる、思うくらいに、その大きな、あの風呂に入ってる。それで私が、ある人が上がっていきますとに、こう言ってるんです。すいませんがうちの家内に、下着の取り替えの、あのもって来るように言うて下さい、という頼みましたんです。そしたらその人が聞こえんふりして、( ? )というか、というような態度で、それを受けていくところを頂きました。
そしたら、側におった合楽のご信者さんが、あー、あの人は○○教会のご信者さんですよ、とこう言う。もういよいよこれをいただい、このお夢を、を二つのお夢を頂いてです、今日はこの事を、どう皆さんに聞いて頂こうかと思うたら、いわゆる、今日の75節を頂きました。
ね、例えば合楽ではもう自分よがりに、もう合楽よりよかとこはなかごといよるけれどもです、それをです、なら鼻持ちならないものとして、聞いたり見たり。ね、あれがちいたこの頃おかげ頂いたと思うたらもう思いあがってしもうて、という風にして、もし聞いたりするならどのように有り難い話であっても、それはその人を傷付けた事になり、殺したことになる。
どんなに美味しい物を、なら食べさせてもです、ね、それを、例えば美味しいものとしないならばです、ね、それはかえって毒になる事になり、殺すことになるでしょう。私はそういう意味でです、ははー、これはいよいよです、いわゆる金光様のご信心の実意丁寧神信心といわれる教祖が、はー、私は少し謙虚さがなかった。
謙虚さというものを、がなくなっておった。ただ自分の心の中に、最近たぎっておるところの、にいうなら真善美の世界とか、ね、合楽の世界と。和賀心の世界というものをです、いよいよ一人にでも多く、広げて行きたい。聞いてもらいたいという、それがあまりに激しくなりすぎて、それこそ、うちにも長年参って来ておる小野先生ですらもです、親先生あなたの言われる事は誇大妄想狂のごとあるです。
私少し激しくいいすぎたから、それに反発して、( ? )いう訳なんです。けれども合楽では有り難いなぁ、本当にそういう事を、その( ? )ならですね、私にいうてくれる信者があるという事は、もうなんと有り難い事だろうかと思いました。
私は改めて、ね、いうならば人を傷付けたり、殺したりしておる。しかも有り難い話を聞いてもらいながら、美味しい物を与えながら、最高のお酒をなら与えながら、気がねさせたり、傷付けたり、又は殺したりしておるようなことであってはです、これはせっかくのおかげがおかげにならないという事を今日は、まぁ改めてです、人を殺すという事はね、日頃頂いておる、み教えから、違った角度から今日は人を殺すという事の意味を、まぁ聞いて頂いたわけですけれども。ん。
それこそ、昨日の私のお夢の中に現れてくるように、私が道を例えば間違えておって、そして、ね、あばら家に、のような家に入って、ね、道を尋ねたところが、奥の方へ、小さいお社、金光様らしい神様が奉ってあるのをみたから、こちら金光様のご信者ですかというたら、は、金光様のご信心を頂いております。あなたもご信心なさいますかち。いや私は合楽ですといったら、はー、合楽の親先生ですかというて、庭に土下座して喜ばれた。拝まれた。
ね、そういう例えばおかげを頂かなければいけないと私は思う。ところが、私がです、ね、お風呂へはい、いわゆる温泉のお風呂に入っておるという事は極楽という事でしょう。極楽に自分が入っておる。いうなら金光様のご信者だから、まぁ気がねないつもりでです、すいませんけれども、私の下着を持ってくるように、そのいったことがです、他所のご信者さんであったためにです、それをふんというような、お前のような、もんのいう事を誰が聞くかといったような風で、出て行かれた。
それは○○教会のご信者ですよと。というところにです、私はなるほどお風呂に入っておる、極楽に行っておるけれども、極楽を極楽と感じさせられてきっていないということなんです。
私は、本当に、合楽とか、ね、和賀心の、世界とかというけれどもです、自分自身が和賀心を感じていなくて、自分自身が極楽を感じていなかったら、極楽に浸っておっても、それは極楽じゃないという事です。
合楽教会に、例えばこれだけ沢山の修行生がある。おる。ね、家族の者がおる。その一人ひとりが、なるほど合楽というところは極楽だなぁ、それに潤うておるんだ。それに私共も、おかげを頂かせてもらっておるという実感がなかったらです、もうそれは、合楽の世界におっても、もう合楽ではないということ。
極楽というのは、銘々が感じるものでなかなきゃならない。そりゃ例えばなら病気をしておってもです、神様の、ね、なら糖尿病という名の、神様のご都合だという頂き方をするところに、和賀(A面おわり)
(B面から)銘々のところでもです、やはりそこんところを、例えば私がそういう、素晴らしい、ね、そりゃそうでしょう。合楽教会は、そういういうならば、世界助けの為に出来たんだ。大坪総一郎はそのために生まれたんだ。
ね、その証拠には、こういう事実が後先になるではないかと。例えばいかにかんでふくめるように、それを事実であるから、事実であるというてもです、それを、親先生はちった、この頃頭がおかしゅうなっておる。ありゃ誇大妄想狂の部に入るといわれるように、信者から感じとられるようであったら、もし合楽が、合楽であっても、( ? )は合楽ではない事になる。一大行事になるです。という事になるわけでしょうね。
これは、だから、どういう意味においてです、私は合楽を、本当に現して行く事の為にはどういう信心をさせて頂いたらよいだろうかと。まぁしきりに、昨日から考えさせて頂いておる。
今朝から、その事を思わせて頂いておりましたら、★水洗便所を頂いた。水洗便所のね、あのトイレトペーパーがないところを頂いたんです。ん、便所といや、まぁ御結界の事だとこう( ? )してます。ね、どういう大小便であろうがです、おかげで楽になったとか、おかげでもう本当にすっきりしたというおかげを頂くことなんだ。
ところが、トイレトペーパーがないという事は、紙がないということだ。紙がないという事はです、いうならばです、せっかく信者におかげを渡しながら信者に尻拭いをさせよらんという事になる。そうでしょう。
だから、信者が尻拭いをせんのじゃない。させきらんのだというところに、私は、私の信心の間違いを気付かせて頂いた。ね、甘木の親先生が口を開けば、ね、もう神様にお礼を申し上げることばっかりをしよったという事です。
おかげを頂いてお礼に出て来て、ね、お供えがえらい少なかった。まぁ少なかったちゅうか、まぁ( ? )だったりするともう、それこそもう完全に、もうそれを替えなければおられんように仰ってたそうですね。
○○さん、( ? )にお礼を申しあげんならんばい。( ? )お詫び申しあげなならんばいて仰った。何回も仰ったそうです。そこでほっと気付いて、はー、真剣なお礼が足らんということになって、お礼が十分に出来るようになる、するとこの次のおかげが又十分に頂けれるという事を、甘木の先生はずっと言われたからなんだ。
その点、私の場合はおかげは渡しておっても、ね、信者に、その尻拭いをしてきっていないというところに、私の信心不足を感じました。
ね、私そこんところはです、もっともっというならば、私自身がね、お礼心をあつうしていくところの信心を、身に付けて、そしてお参りしてくるご信者さんも、おかげを頂いたら、その、いうならばお礼参りに信心が出来ます、といったような信心をです、皆さんに分かって頂くことの、教導に進入させてもらわんならんなといったような事を感じましたですね。
どうぞ、昨日、皆さんが頂かれたあの御理解の中から、小野先生じゃないけれども、それと、よく似たような考え方をもしなさった方があるとするならばです、これは私の(?)ですから、改めてこれはお詫びさせてもらいます。
けれどもあれを本当にそうだ、と頂いてくださった方は、本当に皆さんの、家庭に、真善美の世界。合楽の世界。極楽の世界を現し得る方達だと、私は思います。ね、ですから、いよいよそれを話してから( ? )。
おかげを、おかげを生かしていく為に、おかげがおかげとして育っていく事のために、いよいよ、ね、いうならば昨日申しましたように、そのために大坪総一郎は生まれたのであるならばです、その大坪総一郎の手にもなろう、足にもなろうという、信心意欲を燃やしていかなければならんと思いますですね。どうぞ。
梶原 佳行